第五章 「学際」
朝の空気は少しひんやりしているのに、胸の奥だけが妙に落ち着かない。
(……なんでだろ)
展示の準備は昨日のうちに終わっている。
忘れ物もない。緊張しているつもりもない。
なのに、
心だけが前へ前へと急いでいるような…そんな変な感覚がまとわりついていた。
少しだけはやく教室に入り、展示室に入ると、みんなの絵が静かに壁に掛けられていた。
湖畔の静けさ。
風が止まった瞬間の、あの青。
描いたときの空気が、そのままキャンバスに閉じ込めた。
(……これ、誰かに伝わるのかな)
自分でも驚くような考えが浮かぶ。
“上手いかどうか”じゃない。“評価されたい”わけでもない。
ただ――
**この静けさを、誰かが感じ取ってくれるだろうか。**
そのことが、胸の奥をそわそわさせていた。
隣には翼の絵がある。
ユーカリの葉。
光に透けて揺れる、淡い色。
翼が「記憶みたい」と言っていた、あの一瞬…

その絵を見つめながら、翼がなにを伝えたいのか。どういう思いで描いたのかを考える。
光が変わる瞬間。
風に揺れる一瞬。
消えそうではかない。でも確かにそこにある色。
再生?記憶?追憶?
翼が言っていた“記憶”という言葉が、胸の奥に静かに沈んでいく。
(……なんか、すごいな。)
翼がこの絵に込めた思いを想像すると、胸のざわつきがまた少しだけ強くなる。
ざわつく理由は、やっぱり分からない。
「ひぃくん、もう来てたんだ」
そのとき、背後から声がした。
振り返ると、翼が立っていた。
朝の光がユーカリの絵に反射して、翼の横顔を淡く照らしている。
「あっ翼。おはよう。うん、なにか落ち着かなくて」
翼は微笑む。
「ふふ。私も」
気づけば、翼は並んで立っていた。どちらから寄ったわけでもないのに、気がつくと肩の高さが同じ位置にあった。
展示室の朝の光が、二人の前に掛けられた絵を静かに照らしている。
でも、視線はすぐに隣へ吸い寄せられる。
翼の絵。
家の庭で育つユーカリの葉。
光に透けて揺れる、淡い色。
翼が「記憶みたい」と言った、あの一瞬。
思わず息を飲んだ。
翼が絵を見つめていた。
その横顔が、朝の光に照らされて少し眩しい。
その顔を直視できなかった。
胸の奥がざわつく理由が分からないから、余計に見られなかった。
まるで逃げるように翼の絵へ視線を戻した。
「今日の学祭って、いろんな展示あるんだって。」
翼がふいに言った。
声は軽いのに、誠の胸の奥にすっと落ちてくる。
絵を見たまま返す。
「……へぇ。じゃあ、見て回るの楽しそうだな。」
言ってから、自分の声が少しだけ上ずっているのに気づいた。
理由は分からない。
ただ、胸のざわつきがまたひとつ跳ねた。
翼は展示室の奥を見ながら続ける。
「写真部とか、書道部とか。あと、家庭科の作品も飾ってあるんだって。」
「なにか観たいのあるんだ?」
「ううん。特に無いかな」
一瞬だけ迷って、自然を装いながら言った。
「……じゃあ、あとで一緒に回る?」
誘った瞬間、
胸の奥がきゅっと縮むような感覚があった。
なぜそんな気持ちになるのかは、やっぱり分からない。
翼は少しだけ目を丸くして、すぐに柔らかく笑った。
「あ、ごめん。ほのかと回る約束してて」
その言葉は、別にショックでも悲しみでもない。
ただ、胸のざわつきが形を変えて、
「そ、そっか。……うん、分かった。」
照れくささを隠すよう、絵に視線を戻した。
翼は嬉しそうに微笑んだまま同じ作品を見ていた。
「楽しみ」
「ひぃくんはどうするの?」
「そうだなあ。佐々木と見て回るかなあ。あいつも暇だろうし」
クスクスと笑う二人。教室にはまだ僕たちしかまだいなかった。
開会式が終わると体育館のざわめきが一気に廊下へ流れ出した。
拍手の余韻。
スピーカーのハウリング。
クラスごとに散っていく足音。
人の波に押されるように教室へ戻り、展示室の前で一度立ち止まった。
(……始まったんだな)
展示室の中ではまだ誰も来ていない。
静けさだけが残っていた。
深呼吸をしてから廊下に出た。
「佐々木、どこだっけ……」
スマホを取り出し、メッセージを送る。
『今どこ?一緒に回らね?』
すぐに既読がついた。
『悪い!クラスの準備押してて無理!』
(……ああ、そうか)
断られたことに特別な感情はなく、孤独感だけが残った。
(じゃあ……どうするかな)
廊下の窓から外を見ると、模擬店の準備をする生徒たちが見えた。
焼きそばの匂いが風に乗って流れてくる。
しばらくぼんやりとその景色を眺めていた。
そのとき――
「お兄ちゃん!」
聞き慣れた声が、
廊下のざわめきの中から飛んできた。
振り返ると、ミユキが大きく手を振っていた。
制服ではなく、私服。
少しだけ背伸びしたような、でもまだ幼さの残る服装。
「……ミユキ?なんでここに」
「学祭、見に来たの。お兄ちゃんの絵、見たくて」
「そっか……じゃあ、行くか」
気恥しさを隠して自然と歩き出し、ミユキが横に並ぶ。
展示室に入ると、朝の光が二人を迎えた。
湖畔の静けさ。
ユーカリの揺れる光。
ミユキは絵の前で立ち止まり、じっと見つめた。
「……お兄ちゃんの絵、なんか、落ち着くね」
その言葉が、胸の奥に静かに染み込んでいく。
「あんなに真剣に描いてたもん。すごいね高校生って!」
ふふっと微笑むと続けて作品を見ていき、そして翼の絵を見た。
「この葉っぱの絵、すごいね。光が透けてるみたい。何の葉っぱかな?」
「ユーカリの葉だよ。新鮮な葉はこうやって光が透けるほど薄いんだ。」
「へぇー!物知りぃ」
いたずらに微笑み返してくる。
「この絵好き。生きてるー!って感じする」
「え?…そっか」
ミユキはぼーっと絵を見ていた。…生きてるか。
「やっぱり美術部ってだけあるね。お兄ちゃんもみんなも凄いって。」
「はは、ありがと」
いつもの家のように軽く頭をなででやった。仲良くしても喧嘩してもやっぱり妹なんだなって思う。
「じゃあ次次」
「はいはい」
出し物系大半は妹と見たであろうか。例えるなら執事セバスチャン状態であった。

「私ね。秋って大好き。こんな素敵な気持ちになれるんだもん。」
ミユキがそう言ったのは、中庭へ続く渡り廊下を歩いているときだった。
風がひとつ吹き抜けて、落ち葉がカサッと足元を転がる。
焼きそばの匂いと、甘いクレープの香りが混ざって漂ってくる。
「……素敵な気持ち?」
「うん。なんかね、空気が澄んでるっていうか。いろんな人の想いが入り混じってっていうか。今日みたいな日って、全部がキラキラして見えるんだよ。」
そう言って笑うミユキの横顔はいつもより少し大人びて見えた。
(……こいつ、こんな顔するんだ)
胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
ミユキはパンフレットを広げながら、あっちこっちと指を動かしながらブツブツ言っていた。
そんなミユキを見つめつつ、遠くをみていたんだ。
ミユキが顔を上げる。
「お兄ちゃん、次どこ行く?」
ゆっくりと視線を戻し、妹の期待に満ちた目を見て小さく笑った。
そのとき、正面から歩いてくる二人の姿がふと視界に入った。
翼とその隣の女の子。
その子は、
背中まで伸びたセミロングの髪がふわっと揺れて、歩くたびに光を拾ってきらりと光った。
表情は明るく、動きも軽い。
まるで学祭そのものみたいに元気で、周りの空気まで明るくしてしまうような雰囲気だった。
翼はその横で、にこっと微笑んで相槌を打つだけ。
それだけで会話が成立しているような。
翼がこちらに気づき、ぱっと顔を上げた。
「あ、ひぃくん」
その声は、人混みのざわめきの中でもすっと耳に届く。
隣の女の子――背中までのセミロングの髪が揺れる、元気そうな子――は
目をきょとんと丸くしてこちらを見ていた。
ミユキが袖を引っ張る。
「お兄ちゃんの友達?」
「あ、うん」
そう答えながらも、僕の視線は翼へ向いていた。
そして気づく。
翼の視線の先は――
僕ではなく、ミユキだった。
そのまま固まったまま口をパクパクしている。
その沈黙を破ったのは、
翼ではなく――隣の女の子だった。
背中までのセミロングを揺らしながら、ぱっと明るい声を出す。
「翼の友達ですか?」
その一言で空気が一気に動いた。
「も、もう…ホノカったら」
翼はまだ固まったまま、横で小さく瞬きをするだけ。
ミユキは驚いたように、でも興味深そうにその子を見返した。
「う、うん。そうだよ。同じクラスだよ。僕は玉葱っていうんだ。」
「こちらは妹で・・・」
聞かれるもなく妹の自己紹介…。完全にうわの空だった。
「・・・」
翼は相変わらず黙って遠くを見ていた。彼女もまたうわの空であった。
「ちょっとツバサ!ツバサったら!」
ぼーっとしている翼を友達が揺らしていた。
「え?あっごめん。」
「えーと妹さんなんだね。小学校の時話したときあったよね。春夏、春夏 翼だよ。」
「あー!知ってるよ!春夏さん。久しぶりですね!」
「妹ちゃん!私は翼の友達の来栖ほのかだよ!学際へようこそ!いつからきてるの?」
完全に僕をスルーしての三人の会話が始まっていた。別に混じりたいわけでもなく、離れられないわけで…。
来栖さんが明るく笑いながら話を振る。
「妹ちゃん、いつから来てたの?」
「えっと、さっきです。お兄ちゃんの絵見たくて」
「へぇー!いいなぁ、兄妹仲良しなんだね!」
「妹ちゃん、名前は?」
「あ、ミユキです」
「かわいい名前だね!」
「昔の翼ってどんな感じだったの?」
「えっ。うーんと…」
「やめてぇー」
そんな会話を聞いてるだけでなんだか居づらい…。
そっぽを向いてるとなんだか意気投合したらしく…
「お兄ちゃん。そういうことで先輩たちと見てくるね!じゃあねー!」
「えーー!」
返事を返す間もなく三人で校舎のほうに歩ていった。完全に置いてきぼりだ。
学祭のざわめきの中で、
僕だけがぽつんと取り残されたような気がした。
(……なんだよ、これ)
とりあえず歩き出した。
どこへ向かうでもなく、ただ流されるように。
校舎の裏手に近い渡り廊下を抜けると、ふいに聞き慣れない音が耳に入った。
「……カンッ!」
金属がぶつかるような、乾いた音。
続いて、誰かの歓声。
(え、なに?)
音のする方へ近づくと中庭の一角に人だかりができていた。
「はい次ー!チャレンジャーどうぞー!」
どうやら、**理科部の“科学屋台”**らしい。
手作りの看板には大きくこう書かれていた。
**『空気砲的あてチャレンジ!』**
段ボールで作った巨大な空気砲。
的はペットボトルや紙コップが積み上げられている。
撃つたびに「ボフッ」と鈍い音がして、的が気持ちよく吹き飛ぶ。
(……なんだこれ。めっちゃ楽しそうじゃん)
気づけば、人だかりの後ろで立ち止まっていた。
さっきまで胸の奥にあった重さが、ほんの少しだけ薄くなる。
風に乗って、空気砲の“ボフッ”という音が響く。
その音が、さっきの置いてけぼりの感覚を少しだけ遠ざけてくれるようだった。
「次のチャレンジャーどうぞー!」
理科部の女子が声を張り上げた瞬間、周りの視線が一斉にこっちへ向いた。
「はい、そこの一年生!君、やってみる?」
(え、僕?)
気づけば、前の人が終わっていて、人の流れに押されるように僕が最前列に立っていた。
「じゃあ、次どうぞー!この空気砲持ってね。」
差し出された段ボールの空気砲は思ったより大きくて、思ったより軽かった。
(……なんだよ、これ。めっちゃ見られてるじゃん)
後ろからクスクス笑い声。
でも、バカにしてる感じじゃない。
ただ、楽しんでるだけの空気。
「的、倒せたら景品あるからね」
理科部の先輩がにっこり笑う。
僕は空気砲を構えた。
段ボールの縁が手に当たって、少しだけくすぐったい。
目の前にはペットボトルと紙コップがタワーみたいに積まれている。
(……よし)
息を吸って段ボールの後ろを思いきり叩いた。
「ボフッ!」
空気の塊が飛び出して、タワーの下段が一気に吹き飛んだ。
「おおーー!!」
周りから歓声が上がる。
思わず、ほんの少しだけ口角が上がってしまった。
空気砲を握ったときの感触が、まだ手のひらに残っている。
段ボールの縁は少し柔らかくて、叩く位置によって“響き方”が変わるのがわかった。
まず、的の積み方。上に行くほど軽くて、下が一番重い。だから下を崩せば全部いける。
積み木遊びの記憶が、ふっと頭の奥から浮かんできた。
あと、空気砲って、真正面よりちょっと下に向けたほうが“空気の塊”が安定する。
構えたとき、段ボールの口の中で空気が“溜まる”感覚があった。
息を吸って、叩く直前に肩の力を抜いて……手首だけで、パシッと
叩いた瞬間の“ボフッ”という音は、ただの音じゃなくて、空気が一気に押し出される“手応え”だ。
その手応えが、的の下段にまっすぐ届いたのがわかった。
周りから歓声が上がる。
理科部の先輩が、「センスあるねぇ」と笑った。
(……いや、センスってほどじゃないけど)
でも、自分の中で“狙い通りにいった”という感覚が確かにあった。まぐれだとは思うけど悪くないな。
理科部の先輩が僕の手に小さな袋を渡してきた。
「はい、成功者にはこれ!景品ね」
袋の中に入っていたのは――
**“温度で色が変わるキーホルダー”**だった。
透明な丸い樹脂の中に小さな星の形をしたプレートが浮かんでいる。
手で触れると、星の色がゆっくりと青から紫に変わった。
(……おお、こういうの、普通に好きだわ)
光るほど派手じゃないけど触るたびに色が変わるのが妙に楽しい。
(ミユキ、こういう“変化する小物”絶対好きだよな…)
ただ、女子ウケする物なのか?微妙なところではあった。
樹脂の表面はつるつるしていて、触ると体温でじんわり色が変わる。
裏には小さく**「理科部・温度反応キーホルダー」** と刻まれていた。
(……なんか、いいな。こういうの、もらうの久しぶりだ)
ポケットにしまうと、樹脂の丸い形が布越しに軽く当たって存在を主張してくる。
ひとりだけの学際。意外と楽しいのかも?
そんなこんなで時刻はお昼を回って、メイン会場の体育館へ行くことにした。
体育館の中は明るくて、ステージではバンドメンバーだろうかギターのチューニングをしていた。
観客は立ち見でぎゅうぎゅうに詰まっていて、ざわざわとした期待の空気が漂っている。
僕は後ろのほう、壁際に立っていた。
そこへ――
「あっ偶然」
来栖さん、翼、ミユキの三人がこちらへ歩いてきた。
ミユキが僕の横にすっと立つ。
「お兄ちゃん、ここにいたんだ。私たち、いろいろ回ってたんだよ」
「おかえり。よかったな」
できるだけ平常心を装い返す。内心安堵と苛立ちが入り混じってはいた。
「家庭科部の小物見てきたの」
ミユキはジャラジャラとポケットを広げて、買ってきたのだろうキラキラな小物を広げてきた。
「なんかね、手縫いのポーチとか、刺繍のヘアピンとか、あと小さい布のキーホルダーとか!全部手作りで、つい買っちゃった」
「ホノカさん、翼さんもずっと“これ可愛い〜”って言ってた」
来栖さんと翼も笑う。
「だって本当に可愛いんだもん!あれ、絶対売り切れるよ。」
つい肩をすくめる。
「まぁ……想像はつく」
翼が静かに言う。
「私は、あの刺繍のやつ好きだった。色が落ち着いてて、なんか大人っぽかった」
(……翼、そういうの好きなのか。ちょっと意外だな)
翼が続ける。
「それでね、黒板アートも見たんだけど……あれ、本当にすごかったよ」
来栖さんが勢いよく頷く。
「そうそう!なんか、黒板全部使って“海の中”描いてあってさ!魚とかクラゲとか、細かいの!」
ミユキが目を輝かせる。
「クラゲのところ、写真撮ったよ。光の感じがすごく綺麗で……お兄ちゃんにも見せたい」
翼は少し照れたように言う。
「……私も。ああいうの、なんか落ち着くんだよ」
(……三人とも、ちゃんと楽しんでたんだな)
そういえば佐久間が黒板アートの準備していたんだった。ギリギリになっても構想がまとまらず、当日になってもギリギリまで描いていたんだって。
アイツはアメリカンチックな画風が好きだから、ほかの人となんか揉めてそうなのが想像につく。
「うちのクラスの黒板アートはどうだった?」
「もちろんみてきたよ。描いた人すごいよね。迫力あるし。楽しいって伝わる」

そう言って、撮ってきた写真を見せてくれた。翼の言うように楽しさを凝縮されてるかのような絵ではある。佐久間やるじゃん。
「映えスポット探してたら中庭のアーチがめっちゃ良よかったね!」
来栖さんが続ける。
「お花のアーチ!写真撮ったらすごく綺麗だったよ。翼と二人で撮ったの待ち受けにしちゃった」
来栖さんが笑う。
「ホノカ、可愛く写ってたよね。あれ、絶対SNS映えするね」
翼は少しだけ微笑む。
「……ミユキちゃんが“もっと右!もっと左!”ってうるさかったけどね」
「だって角度大事なんだもん!」
(……女子って本当に写真好きだよな)
でも...
三人が楽しそうに話すのを聞いていると、その光景が目に浮かぶようで、胸のざわつきが少しずつ溶けていく。
ミユキが手を上げる。
「あとね!クレープ食べたんだけど、すごく美味しかった!」
ホノカが笑う。
「ミユキちゃんは“いちご生クリーム”で、私は“チョコバナナ”!」
翼は少し照れたように言う。
「……私はシュガーバター。甘いのも好きだけど、あれは並びすぎてて……」
がすかさず突っ込む。
「翼、甘いの好きなくせに〜!」
「ち、違う……」
翼が小さくむくれる。
ミユキが僕の袖をつまむ。
「お兄ちゃんは何か食べた?食べてないのならまだやってると思うし」
「……まぁ、いいけど。あとで何か食べようかな?」
三人が嬉しそうに笑う。
その笑顔を見て胸の奥が少しだけ軽くなる。
ステージのボーカルがマイクを叩く。
「はーい!そろそろ始めるよー!みんな準備できてるー!」
観客が一斉に「おーー!!」と叫ぶ。
三人も僕も、自然とステージのほうへ向き直った。
ライブが始まる直前のあの独特の高揚感が体育館を満たしていく。
午後の屋台通りは、午前の喧騒が嘘みたいに落ち着いていた。
鉄板の上でソースが焦げる匂いが風に乗って流れてくる。
僕は焼きそばの列に並んでいた。
前の人が注文を終えるたびに、鉄板の上で麺が跳ねる音がする。
そんなとき――
「……あっ。君は」
後ろから声がした。
振り返ると、ミニゲームのときにキーを渡してくれた理科部の先輩が立っていた。
「あぁ。ミニゲームのときの……」
先輩は、まるで再会を心から喜んでいるみたいに、ぱっと花が咲くような笑顔を見せた。
「また君に逢っちゃったね」
「君は、あれからどうしてたの?午前中、楽しめた?」
先輩がそう聞いてきたとき、僕は一瞬だけ言葉に詰まった。
午前中のことが頭をよぎる。三人が楽しそうに話していた“あれこれ”。
でも――
「……いや、実は」
僕は少しだけ視線を落として言った。
「一人でウロウロしてました」
先輩は目を丸くした。
「えっ、そうなの?てっきり全部回ったのかと思ってた」
「いや……みんなが話してたのを聞いただけで。僕自身は、ほとんど何も見てなくて」
言ってから、なんだか胸の奥が少しだけ軽くなった気がした。
午前中の“置いていかれたような感覚”を、初めて誰かに言葉にしたからかもしれない。
先輩はふっと柔らかく笑った。
「そっか。じゃあ、君の“本当の学祭”は、まだこれからなんだね」
「……えっ?」
「午後の学祭って、午前とは全然違うよ。空気も、人の流れも、感じ方も。君が一人で歩いてるの、なんか分かる気がする」
先輩は焼きそばの列が少し進んだのを見て、僕の横に並び直しながら続けた。
「私ね、休憩に入って“何食べよっかな〜”って歩いてたら、焼きそばの列に君がいたの。本当に偶然」
「……そうなんですね」
「うん。でも、こういう偶然って、なんかちょっと嬉しいよね」
先輩はそう言って、両手の指を重ねながらまたあの満面の笑みを見せた。
焼きそばの湯気が、その笑顔の輪郭をふわっと揺らす。
(……なんだ、この感じ)
午前中とは違う、午後の学祭の空気が胸にドキドキと入り込んでくるようだった。
「あっそのぉ。君が良ければなんだけど、一緒に焼きそば食べていかない?えへへ」
ドキドキした感情がさらにドッキンと高鳴る気がした。
「えっ!あ、いや、えーと。一緒にって?」
「ほら、どっかで座って食べようよ!縁ってことで!」
「えん?」
こんなことは初めてでドキドキがとまらず、どうしたらいいのか迷ってしまった。
「あ、はい。一緒に食べましょう!」
自分でも驚くくらい、声が少し上ずっていた。
先輩はその反応が可笑しかったのか、口元に手を当てて小さく笑った。
「よかった。断られたらどうしようかと思ったよ」
「そ、そんな……断るわけないですよ」
「ふふっ。じゃあ、決まりだね」
列がまた少し進む。
鉄板の上でソースが焦げる匂いが、さっきよりも強く感じられた。
(……なんだこれ。午前中とは全然違う。胸がずっと落ち着かない)
先輩は僕の横で、焼きそばを作る様子をじっと眺めていた。
その横顔は、午前中に見た誰の表情とも違っていた。
「ねぇ、君ってさ」
「はい?」
「さっき言ってたでしょ。一人でウロウロしてたって」
「……はい」
「そういうの、私けっこう好きだよ」
「え?」
「人混みに流されないで、自分のペースで歩くって、なんか落ち着くんだよね」
胸の奥がまたドクンと跳ねた。
「ほら、君ってさ。なんか“静かに見てる”感じがするから」
「そ、そうですかね……」

「うん。だから、こうしてまた会えたのちょっと嬉しいんだよ。…(まるでパパみたい)」
先輩はそう言って、またあの満面の笑みを向けてきた。
「えっ?」
焼きそばの湯気がその笑顔をふわっと包み込む。
(……やばい。本当に、どうしたらいいんだ)
僕の心臓は、午前中のどんな瞬間よりも大きく鳴っていた。
「だけど、私ね。学際なのに出し物の係でしょ?ひとりで今年の学際終わっていくのかなっと思うと寂しくもあって…えへへ」
その笑顔は、さっきまでの“満面の笑み”とは少し違っていた。
どこか弱さが混ざっていて、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
(……先輩も、ひとりだったんだ)
午前中、自分だけが置いていかれたように感じていた。
でも今、目の前の先輩も同じように“ひとりで学祭を終えるかもしれない”と...
不安を抱えていたに違いない。
そのことが、胸の奥にじんわりと広がっていく。
「……先輩」
気づけば、呼びかける声が少しだけ優しくなっていた。
先輩は顔を上げて、僕の目をまっすぐ見つめる。
「だからね。こうして偶然でも、誰かと一緒にいられるのって……すごく嬉し…ん」
焼きそばの鉄板から立ち上る湯気が、二人の間をふわりと揺らす。
「…もう休憩時間は終わり!そろそろ戻らなきゃ。一緒に食べてくれてありがとね。あと半日楽しんでね!」
先輩はそういうと早々と立ち上がり振り向かずに立ち去ろうとした。
「先輩!待って…名前を教えてほしいです」
思わず声が出た。自分でも驚くほど大きくて、真っ直ぐで。
先輩の足がぴたりと止まり、
焼きそばの湯気がふわっと流れて、その輪郭を柔らかく揺らす。
「……そっか。まだ言ってなかったね」
先輩はそれでも振り向かず、空を見上げながら話し始めた。
「私――」
「ももか。…桜井 桃花(さくらい ももか)。桃の“もも”に、花の“か”。覚えやすいでしょ?」
胸の奥がドクン、と跳ねる。
「じゃあね」
桜井先輩は軽く手を振って、人混みの中へと駆けていった。
その背中が見えなくなるまで、僕はただ立ち尽くしていた。
(……桜井 桃花)
名前を心の中で繰り返すたびに胸の奥がじんわり熱くなる。
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