「翼、何描くか決まった?」
季節は異常な暑さを残したまま時間が過ぎていき、学際まであとひと月となったある日。
「うん。……これ」
翼はユーカリの枝をそっと持ち上げ、

窓から差し込む光にすかして見せた。
薄い葉が、光を受けてふわりと透ける。
緑でもない、黄色でもない、
その中間の淡い色がゆらゆら揺れた。
思わず見入った。目を細めて、葉の向こうの光を見つめた。
「……こんなふうに透けるんだな。緑でもない、黄色でもない……確かに、どっちでもない色だ」
翼は小さくうなずいた。
「風が吹くと、葉が揺れて、光が変わるの。
一瞬だけ、すごく淡い色になる時それが……なんだか、記憶みたいで」
黙って葉を見つめていた。
「えーと、ユーカリって花言葉があるの。“再生”とか、“記憶”とか、“追憶”」
翼は少しだけ声を落とした。
「私、この“光に透ける瞬間”を描きたいの。ただの葉っぱじゃなくて……光と風と、思い出が混ざったみたいな色を」
翼は小さくうなずいた。
「ね。私、この“透ける感じ”を描きたいの。風が吹くと揺れて、光が変わっその一瞬の色が、すごく好きで…」
翼は少し照れながら続けた。
そして静かに頷いた。
「確かに。消えそうで、でもちゃんとそこにある感じがする」
翼は嬉しそうに笑った。
「きっと伝わるよ」
二人は自然と笑いあった。
「来月かあ」
僕はふいにつぶやく。
翼はユーカリの葉を光に透かしたまま、ちらりと僕のほうを見る。
「……早いよね。あっという間」
その言い方は、
“楽しみ”と“焦り”が半分ずつ混ざっているようだった。
スケッチブックの白いページを見下ろす。
そこにはまだ何も描かれていない。
でも、夏の湖の静けさや、
さっき翼が見せた淡い光の色が、頭の中でゆっくり形になり始めていた。
「…来月には、ちゃんと形になってるかな」
つぶやくように言うと、
翼はユーカリの葉をそっと下ろして笑った。
「なるよ。ひぃくんは、いつも最後にちゃんと形にするよね」
「……そう見えるだけだよ」
「そう見えるってことは、そうなんだよ」
翼は軽く肩をすくめて、
でもその目はまっすぐだった。
窓から吹き込む風が、
ユーカリの葉をまた揺らす。
淡い色が一瞬だけ光って、
すぐに消える。
その儚さが、なぜか胸の奥に静かに残った。
少し重たい静けさが家の中に漂っていた。
リビングのテーブルには、
参考書とノートが積み上がっている。
ミユキはその真ん中に座り、
シャープペンを握ったまま眉を寄せていた。
「……んー……」
小さく唸る声。
ページをめくる音。
時計の針の音がやけに大きく聞こえる。
受験まであと数ヶ月。
家の空気が、どこか受験モードになっている。
自分の部屋に戻り、棚の上のゲーム機に手を伸ばしかけて――止めた。
(……今、ここでやるのは違うよな)
音は出さなくても、
画面の光や、ボタンを押す指の動きだけでミユキの集中を削いでしまいそうだった。
そっとゲーム機を置き、代わりにスケッチブックを開いた。
鉛筆の音なら、
ミユキの邪魔にはならない。
部屋のドアを少しだけ開けておくと、廊下越しにミユキのページをめくる音が聞こえた。
(頑張ってるな……)
そう思うと、自分も何か手を動かしていたくなる。
昨日の湖の静けさ。
ユーカリの透ける光。
翼の言葉。
それらが頭の中でゆっくり混ざり合って、白い紙の上に少しずつ線が落ちていく。
ミユキの勉強する音と、鉛筆の音。
二つの音が、静けさを満たしていく。
ゲームの代わりに、今日はこの静けさを描く。
そんな夜だった。
シャープペンの走る音が止まった。
廊下の向こうから、少しだけためらうような気配がする。
「……お兄ちゃん」
ミユキの声は、勉強の合間にふっと漏れたみたいに小さかった。
鉛筆を止めて顔を上げる。
「ん?」
「何かいてるの?」
ドアの隙間からのぞくミユキは、
勉強で疲れたのか、少しだけ目がとろんとしていた。
でも、その視線は誠のスケッチブックに向いている。
一瞬だけ迷って、
スケッチブックを閉じるでもなく、
見せるでもなく、
ただ膝の上に置いたまま答えた。
「ほら、俺美術部だろ?学際で展示する作品描いてるんだ。」
「ふーん……」
ミユキは部屋に入ってくるでもなく、
ドアのところで立ち止まったまま、手元をじっと見ていた。

邪魔をしてはいけないと思っていたのは僕のほうなのに、
こうして覗きに来るあたり、ミユキらしい。
「…ゲームしないの?」
「……今はいいかな。音とか出すと、集中できないだろ?」
ミユキは一瞬だけ目を丸くして、
すぐに視線をそらした。
「べ、別に……気にしないけど」
その言い方は、“気にしてる”の裏返しだと分かった。
笑わず、軽く肩をすくめる。
「まあ、俺が気になるんだよ」
ミユキは返事をしない。
でも、ほんの少しだけ口元が緩んだ。
「……じゃあ、もうちょっと頑張るかな?落ち着いたら…」
そう言って言い終わらず、また自分の部屋に戻っていく。
さっきより空気が軽くなった気がした。
スケッチブックを開き直し、鉛筆をそっと走らせる。
ミユキの勉強する音と、スケッチブックの鉛筆の音。
妹が頑張っているんだ。僕も頑張らなきゃどうする。
二つの音が、家の静けさを優しく満たしていく。そんな気がしたんだ。
0