第4章 美術部と僕


蝉の合唱が、湖面に反射した光と一緒に揺れているように聞こえた。
美術部の夏合宿。合宿先は、湖畔にある古い別荘だった。
木造の床はところどころ軋むけれど、その静けさが、むしろ落ち着く。窓を開けると、湖から吹く風がひんやりと頬を撫でた。
外の暑さとは違う、少し湿った冷たさ。絵の具の匂いと混ざって、なんだか懐かしい気持ちになる。キャンバスに向かって筆を動かす。湖の青は、ただの青じゃない。光の角度で緑にも灰色にも見える。
それをどう描けばいいのか、少しだけ悩む。
遠くで、ボートのオールが水を叩く音がした。誰かが練習しているのだろうか。
その音が、蝉の声と重なって、夏の午後をゆっくりと満たしていく。
背後から音がして、振り返ると翼が立っていた。
「どうしたの、翼」
「ううん。ちょっと涼みに来ただけ」
そばまで歩いてきて、湖から吹く風に髪を揺らした。

「ここ、風が気持ちいいね」
「うん。外よりはマシ」
「……ひぃくん、絵、進んでる?」
「まあ、ぼちぼちかな」
翼はキャンバスを覗き込むでもなく、ただ湖のほうを見ていた。
「湖の色、難しいよね。見るたびに違う色してる」
「そうなんだよ。青って言い切れないね」
「青でも緑でもない。何色だろうね?それが幻想的で飽きないのかも?」
「確かに見飽きない」
それだけ言うと、翼は窓枠に手を置いて、外の光を眺めた。
しばらく沈黙が続いたが、それを遮ることも必要がなかった。
翼が隣にいるだけで、さっきまでより少しだけ風が涼しく感じた。
ミーィン、ミィーン――。
――こういう時間も、悪くない。
ほんの数分のことなのに、この静けさごと、夏の光に溶けていくようだった。
その日、顧問から
「秋の学祭に向けて、そろそろ作品のテーマを決めろ」
と言われた。
言われても正直ピンとこない。アトリエの隅でスケッチブックを開いたまま固まっていると、隣に影が落ちた。
「……ひぃくん、テーマ決まった?」
翼だ。
「いや、全然。なんか、しっくりこなくて」
「わかる。急に言われても、浮かばないよね」
僕の向かいに腰を下ろし、スケッチブックの白いページを覗き込むでもなく、ただぼんやりと窓の外の湖を見ていた。
「ひぃくんは、どんなの描きたいの?」
「うーん……。“これだ”っていうのがないんだよ。風景でもいいけど、なんか普通だし」
「普通でもいいんじゃない?ひぃくんの絵、静かで好きだよ」
「……静か、ね」
「うん。あの湖も、なんか“音が落ち着いた感じ”がしていいと思った」
そう言って、少しだけ笑った。
「じゃあさ、“静けさ”とかどう?テーマって言うほど大げさじゃないけど」
「静けさ……」
言葉にしてみると、湖の風や、蝉の声の向こうにある空気が思い出された。
「悪くないかも」
「でしょ。ひぃくんの絵って、そういうのが似合うと思うよ」
スケッチブックの端を指で軽くつつきながら、また湖のほうへ視線を戻した。
特別な話じゃない。でも、こうして話ていると、少しだけ頭の中が整理されていく気がした。
「……ありがとう。なんか決まりそう」
「よかった」
それだけ言って、翼は立ち上がった。
窓から差し込む光の中で、
その背中が少しだけ眩しく見えた。
「あのね。私は大体決めているよ」
少しだけ肩をすくめて笑った。
「うーん。でも……今は内緒」
「内緒?」
「うん。まだ形になってないし。ちゃんと描けるって思えたら、そのとき話すよ」
そう言って、翼はまた湖のほうへ視線を戻した。
窓から吹き込む風が、翼の髪をそっと揺らす。
言いたくないわけじゃい。まだ自分の中で温めている途中のものを、誰かに見せるのが少し恥ずかしいだけ。
そんな空気が伝わってきた。
「……そっか。じゃあ楽しみにしてる」
「うん。ひぃくんのもね」
それだけ言うと、翼は軽く手を振ってアトリエを出ていった。
残された静けさの中で、さっきより少しだけ湖の色が鮮やかに見えた。


0