第3章 春夏 翼
高校でまた「ひぃくん」に逢える!
私の心はときめきを隠せなかった。
「ひぃくん」こと、玉葱 誠くん。
私のヒーロー。だから「ひぃくん」と呼んだんです。
――と言っても、
中学の頃、私はひぃくんとほとんど話したことがありません。
同じクラスになったこともなく、廊下ですれ違っても、
お互いに目を合わさないでいました。
それでも、私の中ではずっと“特別な人”でした。
理由は、たぶんあの日のこと。
体育館の前を通りかかったとき、ひぃくんがひとりでバスケをしていました。
誰かと競っているわけでもなく、黙々とドリブルして、シュートを打って、
またボールを拾って。
その姿が、どうしようもなく目を引いた。派手な動きじゃないのに。
声を張り上げるわけでもない。でも、“好きなことに向き合っている人の背中”って、
こんなにもきれいなんだと思いました。
あのときのひぃくんは、
私の知らない世界にいるみたいで、でもなぜか目が離せなかったんです。
気づけば、体育館の前を通るたびにひぃくんを探していました。
話しかける勇気なんてありませんでした。
ただ、遠くから見ているだけでした。
それでも、私の中ではずっと――ひぃくんはヒーローです。
だから、高校が同じと知ったとき、胸がぎゅっと熱くなりました。
今度こそ、少しだけでも近づけるかもしれない。そんな期待を、私はずっと抱えていました。

ひぃくんを「ヒーロー」と呼ぶようになったのは、本当に些細なことばかりです。
小学生の頃、私が落とした鉛筆を誰よりも先に拾ってくれました。
消しゴムを忘れた日には、「使っていいよ」って、当たり前みたいに差し出してくれました。
図工の時間、重くて持てなかった画材箱を、
何も言わずに持ってくれたこともあります。
休み時間には、「一緒にやる?」って、おにごっこに誘ってくれました。
どれも一瞬で終わるようなことなのに、そのたびに胸の奥がふわっと温かくなりました。
気づけば、私は誠くんのことを「ひぃくん」と呼ぶようになっていたんです。
最初にそう呼んだとき、彼は少しだけ怪訝な顔をしました。
「……ひぃくん?」
眉をひそめて、どう反応すればいいのか迷っているような表情なのを覚えています。
その瞬間、私は“変な呼び方しちゃったかな”と不安になりましたが、
でも、ひぃくんはすぐにふっと力を抜いたように、
「……なんだよそれ」
と、小さく言って笑ってくれました。
そのときの優しい笑顔は、今でもはっきり覚えています。
あの笑顔から自然と彼のことを「ひぃくん」と呼ぶようになりました。
私にとってその一言に全部が詰まっています。
憧れも、感謝も、胸の奥の小さなときめきも…
入学してから間もない部活決めの最終日でした。
教室の空気はどこか落ち着かなくて、
みんながプリントを手にそわそわしていました。
私は、ずっと迷っていました。
ひぃくんに――聞くべきか、聞かないべきかを。
私は美術部に入るのは決めていました。
でも、ひぃくんがどこを選ぶのかは知りません。
知りたい。でも、知るのが怖くて…
だって私は、なんとなく思っていたんです。
――ひぃくんは、きっとバスケ部を選ぶんだろうなって。
ひぃくんがバスケを離れるなんて想像できませんでした。
もし本当にバスケ部を選んでいたら…
もし、私とはまったく違う場所へ行ってしまったら…
そんなことを考えると、胸の奥がきゅっと痛くなります。
でも、聞かずに後悔するのはもっと嫌でした。
私は深呼吸をして、ひぃくんの席へそっと歩いて行きました。
「……ひぃくん」
呼んだ瞬間、胸の奥がじんわり熱くなりました。
小学生の頃からずっと呼んできた名前なのに、
今はどうしてこんなに緊張するんでしょうか。
ひぃくんが顔を上げる。
相変わらず静かで、でもどこか優しい目。
「部活……決めた?」
自分でも驚くほど小さな声でした。
聞こえたかどうか不安になるくらい。
ひぃくんは少しだけ目を瞬いて、
プリントを見下ろしてから、ゆっくりと首を横に振りました。
「……完全に忘れてた」
「……そっか。ひぃくん、そういうの後回しにしちゃうよね」
そう言いながら、私は胸の奥でそっと息をつきます。
本当はもっと聞きたかったんです。どこにしようと思っているのか、バスケは続けるのか、私と同じ場所に来てくれる可能性はあるのとか。
でも、そんなことを聞いたら、きっと気持ちが溢れてしまう。
だから私は、昔から知っている“ひぃくんらしさ”に触れる言葉で自分の心を落ち着かせようとしていました。
軽く笑って言ったつもりだったのに、胸の奥はまだ少しだけ痛かったんです。
それでも――
ひぃくんがまだどこにも決めていないという事実が、小さな灯りみたいに胸の中で揺れていました。
期待しちゃいけない。
でも、期待してしまう。
そんな自分に気づいて、私はそっと視線を落としました。
放課後の美術室は静かで、
窓からの光が机の上に淡く広がってます。
私はスケッチブックを開いたまま、
今日描く絵をぼんやり考えていました。
そのとき、ただなんともない扉の空くガラガラという音が美術室の空気を震わせました。
顔を上げた瞬間、胸がどくん、と大きく跳ねました。
ひぃくんが、美術室の入り口に立っていたからです。
制服の袖を少しだけまくって、プリントを片手に持って、いつもの静かな目で室内を見渡しました。
どうして、ここに――そう思ったのに、声が出ませんでした。
ひぃくんが顧問の先生と話し、そのままこちらへ歩いて来ます。
近づくたびに、胸の奥が熱いです。
「……今日から、美術部に入ることになった」
その言葉が耳に届いた瞬間、世界の音がふっと遠のいた気がしました。

美術部に
ひぃくんが
ここに!?
信じられなくて、でも嬉しくて、心臓が痛いほど脈打ちました。
ひぃくんが私の近くの席に腰を下ろしました。
「……翼」
名前を呼ばれただけで、胸がまた跳ねました。
「よろしく……な」
その一言が、今日一日のどんな言葉よりも強く胸に響きました。
私は、コクッと小さくうなずくことしかできませんでした。
声を出したら、きっと震えてしまう。
ひぃくんが隣にいる。
同じ部活にいる。
その事実だけで、胸の奥がじんわりと熱くなっていました。
ひぃくんはあの日と同じ笑顔でこちらを見ていました。
そして同時に描きたいものが一瞬にして脳内に鮮明に反映され、私の顔は、夕焼けを写すかのように染められていくようでした。
それは、ただ日常を過ごす日々のことです。
六月の終わり、放課後の廊下は部活へ向かう生徒で賑わっていました。
私はスケッチブックを抱えて、人の流れを避けるようにゆっくり歩いていました。
そのとき、前方で誰かが転びそうになったんです。
「わっ……!」
プリントが床に散らばってしまいました。
周りの子たちは一瞬驚いたけれど、
すぐに通り過ぎていった。
私は立ち止まったまま、
どう声をかければいいのか迷っていました。
そのとき――
「大丈夫!?手、痛くない?」
明るい声とともに、来栖 ほのかさんが駆け寄りました。
彼女はしゃがみ込み、散らばったプリントを素早く集めていきました。
動きが驚くほどテキパキしていて、迷いがなくて、優しさが自然に滲んでいました。
「ほら、これ全部。気をつけてね!」
転びかけた子が「ありがとう」と言うと、彼女はにこっと笑いました。
その笑顔を見た瞬間、ふと脳裏にひぃくんの顔が通り過ぎていきました。
あのときと同じ“迷いのない優しさ”が、彼女と重なりました。
彼女は明るくて、元気で、周りを自然に引っ張る力があるんです。
ひぃくんとは違うのに、どこか似ている…
彼女がこちらに気づいて手を振りました。
「春夏さん!美術部行くの?がんばってね!」
その笑顔が眩しくて、私は思わず小さく頷きました。
――この子のこと、もっと知りたい――
恋愛じゃない。
ただ、人として惹かれたんです。
それが、私とほのかの始まりでした。
来栖 ほのかは、同じクラスの子です。
明るくて、元気で、誰とでもすぐに打ち解けられます。
バスケ部に入部していて、活発的だとわかります。
授業中でも、先生に当てられたら 「はいっ!」と誰よりも大きな声で返事をするし、
体育の時間は誰よりも楽しそうでした。
私とは正反対のタイプ…
――どうしてだろう。 自分にはないものを、 彼女は当たり前のように持っているからかもしれません。気が付けば目で追っていました。
まっすぐで、迷いがなくて、
周りの空気まで明るくしてしまうような人みたい。
翌日の昼休み。
私は来栖さんの席の前で立ち止まりました。
「……来栖さん」
「ん?春夏さん、どうしたの?」
振り向いた来栖さんは、今日も元気いっぱいの笑顔でした。
その明るさに少し気圧されながら、私は言葉を探しました。
「この前は……ありがとう」
「えっ、この前?」
来栖さんはぱちぱちと瞬きをして、首をかしげていました。
「廊下で……プリント、散らばってたとき」
「あーーーっ!あれね!」
急に声が弾んで、周りの子がちらっと見てました。
来栖さんは気にせず、勢いよく立ち上がりました。
「いやいや、あれは普通だよ!困ってたら助ける!フツーフツー!」
そう言いながら、照れたように頭をかいてます。頬がほんのり赤くて、なんだか可愛いです。
「でも……すごいと思った。すぐ動けるの、来栖さん」
「えっ、ほんとに?春夏さんがそう言うと嬉しいなぁ」
来栖さんは照れ笑いしながら、机に手をついて身を乗り出してくる。
「私ね、じっとしてるの苦手なの。気づいたら体が動いちゃうっていうか……あ、でも変な意味じゃなくて!」
慌てて手をぶんぶん振る姿が、また女の子らしくて、私は思わず小さく笑ってしまいました。
「……そういうところ、いいと思う」
「えっ、なにそれ、褒めてる?褒めてるよね?
わー、春夏さんって意外とストレートに言うんだ!」
「そ、そんなこと……」
「あるある!絶対ある!」

来栖さんは嬉しそうに笑って、その笑顔がまた眩しくて、胸の奥がふわっと温かくなりました。
ある日の放課後。
教室で帰り支度をしていると、たまたま同じタイミングで佐伯さんもカバンを閉じていたときです。
「あ、春夏さんも帰るとこ?」
「……うん」
「今日、なんか一日長くなかった?私、五時間目あたりで眠くてさ〜」
「そうなんだ」
「うん。黒板見てたら、なんか文字が踊ってるみたいでさ。あれ絶対眠気のせいだよね」
来栖さんは自分で言って笑った。その笑い方が、なんでもない話なのに楽しそうで、つられて少しだけ口元がゆるみます。
「春夏さんは眠くならないの?なんか、ずっと静かに聞いてるイメージある」
「……別に。普通だよ」
「そっか。なんか、落ち着いてていいなって思うけどね」
そう言って、来栖さんは肩にかけたカバンを軽く揺らしました。
「じゃ、また明日ね」
軽く手を振り、教室を出たあとも、耳の奥に笑い声が残っていました。
それからというもの、来栖さんと私はすっかり仲良くなりました。
気づけば、教室を移動するときも一緒に歩いていたし、昼ご飯のときも、何度か机を並べて食べるようになっています。
特別なきっかけがあったわけじゃありませんが、ただ同じタイミングで席を立ったり、
たまたま廊下で会ったり、そんな些細なことの積み重ねで、自然と距離が縮まっていったんだと思います。
そんなある日のことです。次の授業に向かおうと廊下に出たとき、少し前を歩いていた来栖さんが、ぱっと振り返った。
「ツバサー! こっちこっち!」
……え?
思わず足が止まった。今、名前で呼ばれたの?
来栖さんは気づかないまま、手をぶんぶん振っている。
「早くしないと席取られちゃうよー!」
その明るさに押されるように、私は小走りで追いつきました。
「……あ、うん」
「あっ、ごめん!つい出ちゃった!なんか、もう“春夏さん”って感じじゃなくてさ!」
そう言って、照れたように笑ってました。
「嫌だったら言ってね? ちゃんと戻すから!」
「……ううん。別に、嫌じゃない」
「ほんと? よかった〜!じゃあさ、私のことも“ホノカ”でいいからね!」
そう言ってまた笑う来栖さんの横顔が、いつもより近く感じました。
――名前で呼ばれるだけで、こんなにも距離が変わるんですね…
その日から、私たちは自然と名前で呼び合うようになりました。
仲がいいのは、他から見てもわかると思います。
教室を移動するときも、昼休みに並んで笑っているときも、
周りの子たちは自然に私たちを“そういう関係”として見ているようでした。
でも、友達って、どこからなんでしょう。
名前で呼び合うようになったから?
一緒にいる時間が増えたから?
それとも、ただ一緒にいると落ち着くから?
考えてみても、よくわかりませんでした。
その感覚があるなら、もう“友達”って言葉の線引きなんて、私たちにはいらないのかもしれません。
ただ一緒にいて、笑って、話して。それだけで十分でした。
ほのかと並んで廊下を歩いていると、前からひぃくんが歩いてきました。
私はふっと表情を緩め、
軽く手を上げて小さく挨拶しました。
その仕草はいつもの、二人だけの挨拶でした。
ひぃくんも軽く手を挙げてを返し、そのまま通り過ぎていくのを横目で見ます。
ほんの数秒の出来事。
けれど、ほのかはその瞬間を見逃さなかったようです。
「……あれ?翼の笑い方が、いつもと少し違った。」
柔らかいというか、どこか“安心してる”ような、そんな感じだと、ほのかは言います。
その日の昼食時間。いつものように机を並べて弁当を広げていると、
ほのかは箸を止めて、じっと見つめてきました。
「ねぇ。ツバサ」
「なぁに?」
「さっき廊下ですれ違った男子……あの人ってさ」
お茶を飲みながら、何気なく返事を待ちます。
ほのかは少しだけ声を潜めて言いました。
「ツバサの彼氏?」
私は盛大にむせてしまいました。
「ち、ちがっ……!なんでそうなるの」
「だってさぁ、なんか……いつもと違う顔してたよ?ツバサのあんな顔、初めて見た」
「そ、そんなこと……」
翼は耳まで赤くなりながら、お弁当のふたをいじってます。
ほのかはにやりと笑いました。
「ふーん。じゃあ、仲いいんだ?」
「……まぁ、普通に。友達、だと思う」
「ふーん、友達ねぇ」
ほのかはそう言いながらも、どこか考えるように視線を宙に漂わせてました。
私はお弁当のふたを指でなぞりながら、どう返事を返そうか悩んでます。
「えっ。その友達がどうかしたの?」
お茶を飲みながら答えたが、自分でも少し声が上ずっているのがわかりました。
ほのかは箸を置き、上の空を見るように天井の一点を見つめてました。
「同じクラスの男子だよね。話したことはないけど……知ってるよ」
ただ事実を確認するような静けさでした。
「どんな人なの? ツバサから見て」
私は少しだけ目を瞬きました。
「どんなって……小学校からの幼馴染だよ。静かで、あんまり騒がないし……」
言いながら、さっきのすれ違いの瞬間が胸の奥でふっと蘇ってしまいます。
ふっと緩んだ自分の表情。軽く上げた手。ひぃくんが返してくれた、あの静かな仕草。
(……普通じゃないのかな)
胸の奥が少しだけざわつきました。ほのかは私の横顔を見つめ、優しく微笑んでました。
「そっか。幼馴染かあ。きっといい人なんだね」
その言葉は、からかいでも押しつけでもなく、ただ私の気持ちを尊重するような温度でした。
私はあえて返事をしなかった。
それから数日は、昼食のたびにほのかの“玉葱 誠トーク”が止まりませんでした。
「ねぇツバサ、今日もすれ違った?」
「幼馴染ってさ、どんな感じなの?」
「小学校のときって、どんな子だったの?」
ほのかは悪気があるわけじゃないんです。ただ、気になったことを素直に聞いてくるだけでしょうか。
「別に普通だよ」とか
「昔から静かなだけ」とか
「中学校のときは話さなかった」とか。
そう答えるたびに、
ほのかは、ふむ、と小さく頷いた。
「中学校のときは話さなかったんだ?」
ほのかは箸を止めて、少しだけ首をかしげています。
「うん。クラスも違ったし……なんか、距離があったというか」
私は言いながら、自分でも説明しづらい感覚を思い出していました。
「小学校のときは普通に話してたんだけど、中学に入ったら、なんとなく話さなくなって……
でも、高校でまた同じクラスになって、気づいたら普通に戻ってた、みたいな」
ほのかはその話を静かに聞いていました。
「へぇ……そういうの、なんかいいね」
「いいって……なにが」
「ううん、なんとなく。離れても、また自然に戻るってさ。そういう関係、ちょっと憧れる」
私は返事をしませんでした。
(……自然に戻る、か)
言われてみれば、そうでした。気づいたらまた話していて、気づいたらまた挨拶していて、
気づいたら――
すれ違うだけで、胸の奥が少し温かくなるようになっていきました。
ほのかは優しく笑いました。
「ツバサにとって、大事な人なんだね」
私は恥ずかしさで視線を落とした。肯定も否定もしようとしたけれど、言葉が喉の奥で止まってしまいます。
けれど――
(……“ひぃくん”って呼ぶ理由だけは、言えない)
心の奥でそっと思ったんです。
幼馴染のことは話せました。
小学校の頃のことも、中学で距離ができたことも。
でも、“あの日”だけは、まだ胸の奥にしまっておきたいんです。
ほのかはそんな私の胸の内を知らないまま、今日もまた弁当をつつきあっているのでした。
窓の外では、雲の切れ目から光がきらきら揺れていました。
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