「はい、みなさん」
佐伯先生は振り返り、落ち着いた声でクラス全体に向けて話し始めた。
「今日から部活動の見学が始まっています。入部は強制ではありませんが、高校生活を楽しむきっかけにもなるので、気になるところがあればぜひ見てみてください」
プリントが前から順に回されてくる。部活一覧がぎっしりと書かれた紙だ。
「提出は来週の月曜までです。見学は放課後いつでも大丈夫ですから、自分のペースで考えてくださいね」
先生の声は淡々としているけれど、どこか優しさがあった。
周りでは、 「どこ入る?」「運動部はきつそうだな」「文化部も多いな」
そんな声があちこちで上がっている。
僕はプリントを手に取り、ざっと目を通しただけで机に置いた。
まだ何かを決める気持ちはない。
ただ、こうして選択肢が並んでいるのを見ると、高校生活が本当に始まったんだと実感する。
ふと視線を横に向けると、翼もプリントを静かに見つめていた。
特別な表情はないけれど、何かを考えているようにも見える。
夕方の光が教室を淡く照らし、ざわめきがゆっくりと広がっていった。
そして、あっという間に2日が経ち、僕は部活動決めについてすっかり忘れていた。授業を受けて、休み時間に佐久間とゲームの話をして、
昼休みに弁当を食べて、そんな“普通の学校生活”がただ流れていっただけだった。
放課後前の教室は、少しざわついていた。帰り支度をする音、友達同士の笑い声、窓から差し込む夕方の光。プリントをしまおうとしていたとき、横から柔らかい声が聞こえた。
「ひぃくん、部活……決めた?」
翼の視線が、静かにこちらを待っている。
少しの沈黙の後、
「あ……完全に忘れてた」
そう答えた瞬間、翼はほんのわずかに眉を寄せた。
驚きというより、
“やっぱりそうなんだろうな”という諦めと、
“どう言えばいいんだろう”という迷いが混ざったような表情だった。
「……そっか。ひぃくん、そういうの後回しにしちゃうよね」
声は柔らかいけれど、
どこか困ったような響きがあった。
翼は手に持っていたプリントを胸の前で軽く揺らしながら、
言葉を探すように視線を落とした。
「えっとね……今日も見学やってるんだよ。みんな、もう動き始めてるみたいで……」
そこで一度、翼は言葉を切った。僕の顔をちらりと見て、
また少しだけ困ったように笑う。
「ひぃくんが忘れてると思って……言ったほうがいいのかなって、ちょっと迷ったんだけど」
その言い方が妙に胸に残った。心配してくれているのか、ただの気遣いなのか、そのどちらとも言えない曖昧さが、翼らしい。
「教えてくれて、ありがとう。……ほんとに忘れてた」
そう返すと、翼はほっとしたように息をついた。
「うん。あ、そうだ……私、美術部に入ったんだ。もう今日から活動してて」
その言葉に、思わず目を瞬いた。
「美術部?」
「うん。中学のときも少し描いてたから……高校でも続けてみようかなって」
翼は照れくさそうに笑いながら、スケッチブックの端を指でつまんだ。
「だから、ひぃくんがどこに入るのか……ちょっと気になってたの」
翼はそう言ったあと、スケッチブックの端を指でそっと押さえた。
「それで、美術部に入ったんだけど」
翼は少しだけ視線を上げ、様子をうかがうように僕の顔を見た。
「中学のときも描いてたし……高校でも続けてみようかなって思って」
「中学の美術部って、どんな感じだったの?」

僕がそう聞くと、翼は一瞬だけ目を丸くして、それから小さく笑った。
「んー……すごく静かだったよ。部室も狭かったし、部員も少なかったし」
翼はスケッチブックを抱え直しながら、少しだけ懐かしそうに続けた。
「でもね、あの狭さがちょうどよかったの。放課後の廊下の音が遠くに聞こえて…
…鉛筆の音だけが近くにあって……なんか、落ち着く場所だった」
翼の声は、思い出をそっと撫でるように柔らかかった。
「先輩も優しかったよ。私、最初は全然うまく描けなくて……線が震えちゃったり、形が崩れたりして」
「でも、先輩がね、“うまく描こうとしなくていいよ”って言ってくれて」
翼は少しだけ目を細めた。
「それで、なんか気が楽になったんだ。上手い下手より、描くのが好きって気持ちのほうが大事なんだって思えるようになって」
翼はそこで一度言葉を切り、僕のプリントに視線を落とした。
「……だから、高校でも続けてみようかなって。別に大きな理由があるわけじゃないんだけどね」
その言い方は控えめで、でもどこか誇らしさも混ざっていた。


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